The Guardianに寄稿された、カプラノスによるアイヴァー・カルターについての記事。Jacquelineに登場するIvorはこの人のこと。歌詞に関する考え方も書いてあって面白かったので、訳してみました。
******
ある友人 ―ジャクリーンという女の子― がロンドンのポエトリー図書館で働いていて、そこへアイヴァー・カルターがよく通っていた。彼女は彼と友達になって、何度かお茶に呼ばれて家に行ったこともあった。彼女はとても若くて、そしてとても魅力的だった。思うに彼女は少々気の効かない子で、彼との出会いから生じた文学的な興奮にすっかり心酔していたものだから、彼が実は彼女が思っていたよりもほんの少し好色な男だったということに気がつかなかったんだろう。
彼女の弁によると、彼女はこんな風にして誘いを即断したらしい。なぜなら、彼は単に、年寄りだったから。彼女はこう言った。「あなたを恋愛対象として見るなんて、ありえないわ。」すると彼はこう答えた。「君の目にはただの年寄りに見えていても、僕は若者だった頃の目で君を見ているんだよ。」
その話がJacquelineの着想になった。人は一組の目を通して誰かに眼差しを向ける時、返ってくる眼差しの中に、自己の投影を見ているということ。
僕はグラスゴーの友人のアンドリューを通じて、カルターの音楽に出会った。僕は彼と一緒に作曲を始めたんだ。あの頃、僕らは14歳かそこら。お互いに聴かせ合えるような新しい音楽との出会いを願いながら、しょっちゅう中古レコードの店に通ってた。レコードプレイヤーの前に何時間も座って、音楽を聴いてたよ。初めて聴いたレコードはダンドルフだったと思う。信じられないくらい素晴らしかった。あんな奇妙で可笑しなものに触れたのは、人生で初めての経験だった。他のあらゆるものと全く違っていた。
いくつかの作品は完全にナンセンスだった。例えばFrensleyっていう、スズメについての歌みたいに。けれど僕はそのシュールな切り口が大好きだった。僕はカルターの音楽には散漫な不条理があると考えていて、というのも、彼の音楽を聴いていると、彼がしばしばかなり鋭い知性を発揮するという事実から少しばかり意識が逸れてしまうから。彼の楽曲にはかなり的を得た観察眼が存在している。そういった要素が、多くのオルタナティブ音楽のファンと同じように、僕らの中の青い部分に訴えてくるんだろう。愛すべきカルターは大きな流儀を持っているように思う。この世には典型的なカルターファン、というような、決まりきった"型"は存在しないけれども。
グラスゴーに彼のライブを観に行った時のことを思い出す。芸術かぶれなイベントだった。ギグの一席はアーツ・カウンシルから多大な協賛を得ていた。観客はとてつもなく共感的だった。誰もが彼の一言一言に聞き入っていた。彼は本当に素晴らしかったから、妥当な反応だったと思う。けれどそれは同時に、誰もが彼の言葉の全てを笑っていたということをも意味する。途中で彼はこう言った。「俺の声が面白いからって、俺の言うことがどれも面白く思えるんだろ。」実に見事だった。彼は少し奇妙な風貌に、特殊な声質をしていて、ばかげた帽子とハルモニウムを持った彼を見れば、人は彼を典型的な面白い奴だと思うだろう。僕は彼に実際に会ったことはないけれど、彼にとってそれはより深い意味を持つ事柄なんだと思う。閉幕後に多くの人が彼に話しかけに行ったけれど、僕はそういう類の事とは関わらないよう心掛けてきた。
彼の作品に宿るスコットランド的かつグラスゴー的な見地も、僕にとっては重要な意味を持っていた。彼の、イギリス人の持つスコットランドらしさの見解を茶化す姿勢が気に入っている。Life in a Scotch Sitting Roomに出てくるように、散歩に出た息子に、父親がこう言う。「見てー!アザミだよ!」それから「見て見てー!またアザミだ!」その後、二人はニシンをポリッジで覆い、フライパンで揚げる。そんな光景は本当に奇妙で ―加えて言いたいのは― スコットランド的な生活とは似ても似つかない。
彼のユーモアのセンスと、禁欲的なスコットランド的背景に敵対するように彼に深く根差したリベラリズムとの間には、心踊るコントラストが存在する。厳格で逞しい人なのかもしれない。「生まれて此の方、貧しさを知らない」と、彼はある本にこう書いていた。「それは身分相応に生きてきたからだ」。けれど彼はこんな曲も書いている。Triangle of Hairという曲で、歌詞はこう。「誰にももれなく体毛の三角形があるというのに、誰もそれについて語ろうとしない」。本当に面白いし、上品ぶった世間を突いている。誰だってセックスについて知っているけれど、彼はそれを当たり障りのないやり方で表現する。彼は自身の持つリベラリズムを他人に押し付けたりはしない。
カルターとフランツ・フェルディナンドの間に音楽的な繋がりは見出だせないけれど、きっと僕は作詞の面で彼から影響を受けてきた。彼には面白味があって、気取った言葉は使わない。僕は会話的なフレーズを使って歌詞として成立させる力のある人たちに惹かれる質がある。ニックの場合はドイツ育ちだから、彼についてよく知っているかどうかは分からないけれど、ボブとポールは彼のファンだ。一緒にバンドとして活動し始めた頃、ボブと僕はよくフラットに籠ってカルターの音楽を聴いていた。
主知主義に陥るまいとするカルターの決意は、僕らのバンドの主軸のひとつでもある。僕らの目指す最高のポップミュージックとは、知的な思考を迂回するものだ。リズムに合わせて体を動かしたり、足を踏みならしたりすると、歌詞が作り出す音に快感を覚えることができる。それでいて、そうしたければ、より深い部分にまで掘り下げて楽しむこともできる。それはカルターの真髄でもあると思う。ある段階において、彼の楽曲はどれもバカげているけれど、別の段階においては素晴らしい詞であり、ものすごく刺激的なものになる。興味深いのは、彼のファンの多くがラウドミュージックのファンである一方で、彼自身はラウドミュージックを嫌っていることで有名だということ。だけど僕はそれについて彼を恨んだりしないよ。
記事の転載はご遠慮ください。
20140511
【海外記事】The Guardian - Ivor, My Inspiration
Posted on 11.5.14 by zoe
| No comments
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿